自殺, 疾風

自殺するとき、人の理性的思考と一般に呼ばれるものは停止している。自殺するとき君は「自殺するくらいの勇気があるなら何か大きいこと成し遂げられるだろ」とか「自殺することは産んでくれた親とか神などへの冒涜だ」みたいな何の内容もない声が全く届かない領域に存在する。頭の中は何か全く別のもので飽和している。金、彼女、etc…… 。いつそのような状態に襲われるかは誰も全くわからない。私ももう今すぐに楽園であると信じたい場所へと旅立つことができるかもしれないのだ。いわゆる理性的思考とは色々な面で人をこの世に縛り付ける鎖である。それを断ち切ることが救いへの道だということは十分にあり得る。

Don Giovanni, addict, new life

恋愛とは連鎖である。彼女に対して持った愛の残り火は別の女性への愛へと昇華されてゆく。否、昇華されてゆくのではない。ただそれはとどまっているのみである。何も昇華などされない。同じことを手を替え品を替え繰り返す螺旋階段でしかない。確かにその間に何らかの方法論だけは自分の中に溜まってゆくかもしれない。しかし、そんなものが何を変え得るだろう。自分の欲望と相手の欲望の狭間で妥協によって2人で事を運んでゆく。その根本はどんな方法論さえも崩すことができない。

相手が誰であるかなどはもはやどうでも良いことである。誰だっていい。自分の欲望が少しでもたくさん満たされるなら。
 
to Zerlina 愛を込めて.
 

脱出

頑張っている人を見れば頑張れる。
つらい境遇にいる人を見ればつらい境遇を我慢できる。
他人との関係の中には、(それは単なる麻薬的なものでありうるものの、やはり)突破口といえるものを作り出す力があるということだ。いい友人とは、風穴を開けてくれる人のことを指示し得ると言えよう。
能動性を失った迷いの中の人にとっては、他者の能動あって初めて受動が成立する。そして、そのような形の受動は何よりも心を打つ美しい感動の源となり得るのだ。

カラオケ、ペッティング、純愛、傷、薬

カラオケにひとりではいる。いくらか歌ってみる。サイケデリック後遺症にたどり着く。そのとき、そこにあの空間が復活した。君が隣にいた。“ああ、そんな風になるんだ” 僕の下手な歌を軽くバカにしながら。僕はそっと君に触れて君は抵抗することもなく。その帰りに君は私にすりよって。

かっこつけすぎたかもしれない。僕がバカだった。寂しがっている自分なんて一度も見せたくなかった。君のこと離したくないなんて一度も言いたくなかった。傷つきたくないから君にあまりのめり込まないよう気をつけた。そして僕は大切なものを見失っていた。

自然に涙が流れた。いつかは、ただの青春の1ページになるだろう。理性的に考えると、必ずそうだとわかる。だが、どうしてだろう、もう立ち直れないような気分は終わることがない。彼女を苦しめた罰はきちんと降ってくる。なんだろう。よかったとさえ思える。裁きも受けずにのうのうと暮らすことになっていたらどうだろう。

恋愛なんて俗物でしかないし、しないに越したことはない。しかし、麻薬と同じようなもので必ず恋愛の終わりには飢えが訪れる。ああ、さみしくて悲しくて勉強も仕事も手につかない。そして飢えると最終的には誰でもいいから捕まえようということになる。そして連鎖は続いてゆく。ひどいものだ。わかっていても中々克服できないものだ。僕が消えれば連鎖も消えるだろうなどといった低俗な方向にしか考えられないものだ。

思い出なんか消えてしまえ。でもやっぱり君は消えて欲しくない。

プラトニック・ラヴ、純愛、何の価値もない。全ては心を傷つける麻薬以外の何者でもない。


好き、嫌い、小紋によせて。

どうしてだろう、大嫌いだったビール。
ふと思い出してしまう。あのほろ苦さが、あの嫌いだったほろ苦さが、ふわっと口の中をつつむ。となりどうしで話した優しいあなたの姿が蘇る。きみはビールが嫌いだと言ったね。ほら、じつはこんなに甘いんだよ。きみも飲んでみるといい。ささやかなものの好き嫌いなんて、全部そのときのきみの感情の波が大きな力でぜんぶくつがえしてしまうから。だから、きみは寄せては引く波に揺られながら、時にはちょっと戯れに抵抗してみたりして生きる。

ひとは多くを経験に頼って形作られていく。音楽だって、絵だって、わたしは“ひと”にまつわる経験と結び付けられたものでないと深く深く愛することは出来ないだろう。きみのせいで小紋という和柄はわたしの心をつかんだ。

こんな戯ればかり、いつまで続くのか。

刹那に溺れて - 呑み、ふと思ふ

全てのものが無価値ならば、どうして超人のような生き方が正しいと言えよう。そのような問いと愈々向き合わざるを得ない時が来ている。結局はそのような「正しい」生き方も何か矮小なものへの中毒であるようにしか思えない。
刹那的な物事に溺れて地上が見えなくなってしまうことと、地上に溺れて刹那が見えなくなってしまうことにどれほど大きな違いが見出し得るというのか。禁欲には一体何の意味があるというのか。

同一とは何なのか

6/19の話。

彼女に似た女性とその彼氏が楽しそうに話しているのを見た。はじめ、それが彼女とわたしの過去に見えた。愛し合っているふたりが懐かしくも胸を痛ませるものとなった。つぎに、それが彼女と彼女の今の彼氏の現在に見えた。愛し合っているふたりがただ憎らしいだけのものに変わった。